逍遥遊・4

 

  【世界最大の飛龍窯】

黒牟田焼の窯場から100mほど下ると「竹古場キルンの森公園」があり、ここに世界最大といわれる登り窯がある。これは、1996年佐賀県有田町で開催された世界炎の博覧会の事業として建造され、昭和20年代まで実際に使われていた登り窯を再現したものだ。窯の全長は23m、4連の焼成室が連なり、一つの部屋は奥行8.9m・幅3.8m・高3.4mである。(写真・下)中型バスがすっぽり納まり、かつまだ余裕のある大きさである。人間ならば何人焼けるだろうなどと考え、後すざりしてしまうほど迫力がある。窯をさらに伸ばし続け100mまでにするという計画さえ立てられていた。博覧会は255万人の入場者を記録し、地方開催としては成功裏に閉幕した。祭りのあとは急速に熱も覚め、年に1回の窯焼きイベントが続けられていた。湯呑みであれば一度に12万個が焼ける巨大窯だ。全国から応募した作品を地元・武雄の陶芸家の協力を得て焼き、窯出しイベントが行われた。10年ほど窯焚き窯出しが続いたが、老朽化と、2005年3月の福岡県西方沖地震の影響もあって損傷が激しくなった。市はいったん閉鎖を決めたが、その後、新市長の方針で観光の目玉として存続へと動いた。建造費約7600万円、そして補修にほぼ半分の約3360万円が投じられた。

この公園は不便な山里にあるため、ほとんど来訪者を見かけない。イベントのときでさえ関係者と見物客が三々五々集まるくらいだ。いったん閉鎖を決めた背景には納得できる点が多々ある。あくまでも「祭りの跡でしかなかった」と思う。生産することも観光に資することも少ない公共の事業に、さらに観光の目玉にすると意気込んで、税金を投入する。この意気込みの構図に公共事業の哀しいスパイラルがある。今後、何年にも渡り維持管理の運命が付きまとい、観光客を集めるために、また別途、税金を活用する。観光、経済効果、地域活性化、、誰れもが疑うことなく「よし」とするものを疑う。

 

 【城散策(1)・名古屋】

旅を好まないし、とりわけ集団で行く旅は遠慮したい。自由が制限され日常性から逸脱する感覚がストレスになる。しかし、好むと好まざるとにかかわらず所用というものは発生する。ならば、時間の余裕をみて、異国の文物を見るもの悪くはない。一人旅は何の遠慮も配慮も要らず、食べたい時に食べ、行きたい場所に行く、飽きたら帰るだけのこと。とは言え、見るべき文物に窮し、観光案内所に頼ることになる。名古屋に来たならば是非、名古屋城をと、地下鉄路線図付きのパンフレットを頂き休日フリーパスの地下鉄乗車券を利用する。名古屋城は大坂城、熊本城とともに日本三名城といわれ、天守閣に取り付けられた金の鯱は名古屋市のシンボルにもなっている。以前、姫路城を見たとき、迷路のような城郭を散策しその複雑さに驚いた。しかし、名古屋城は直線的でこれは築城思想の違いによるものだという。1612年(慶長17年)に完成以来、333年間、威容を誇っていたが、1945年(昭和20年)、空襲による大火災で石垣だけが残った。1957年(昭和32年)名古屋市制70周年記念事業として再建が始まり2年後に完成する。金鯱が初めて作られたときは一対で慶長大判1940枚分の金(約320kg)を使用していたが、現在のものには88kgが使用されている。

テレビ、雑誌などで頻繁に目にする城なので、実物確認の見物となった。敷地は広いが城はコンパクトで想像以下のものであった。イメージだけが膨らみすぎていたのかも知れない。外国人の観光客も多く、英語、中国語、韓国語など、意味不明ながら聞き分けられた。城の写真スポットと思われる場所には多数の人がひしめき、カメラや携帯をかざしていたが、私は敢えて梅園からの一枚を選んだ。天守閣に登り、展示品を見学し時間は過ぎる。「次は..」とパンフレットを広げるが、歩き疲れ散策の気力は急速に減退する。名古屋駅前のホテルで一泊、都会の夜景を撮ってみた。

 

【城散策(2)・松山】 

「春分の候」、30年ぶりの四国行きであった。徹頭徹尾、飛行機を苦手とするが、時間の都合で利用せざるを得ない。最後まで飛行機を回避するべく四国へのルートを検討した。JRならば6〜7時間、海路は幾つかあって8時間かかるものから1時間のものまで。最後に費用対効果を勘案し、耐え難きを耐えることで空路を選ぶ。飛行時間30〜40分ならば、我慢もしよう。手のひらには冷汗三斗、足が大地に着かない狭い機内の恐怖は、同士でない限り理解してもらえそうにない。無事に大地を踏みしめることができるだろうか。周防灘、瀬戸内海、伊予灘をまたいで飛行機の高度は徐々に下がる。松山へ降り立ち市街へと向かう。松山は城を中心とした落ち着いた町並みだ。電車やバスに乗ると路線が回りくどいため時間がかかり、大きな町のように錯覚するが、自転車で回れるほどまとまっている。愛媛県・松山城は市の中心部の勝山の山頂に本丸を構え、別名「金亀城」「勝山城」と呼ばれ、天守は大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を渡り櫓(廊下)で結んだ連立式城郭である。連立式の城としては姫路城や和歌山城があり、これに松山城を加え三大連立式平山城といい、国の重要文化財に指定されている。町中から城を仰ぎ見ることができ、城からは町中を見渡すことができる。圧倒的存在感のため、とにかく行かねばならぬという気にさせられる。

この日の所用は思いのほか早く片付く。城への道を尋ね、最寄の電停を教わる。その電停で降りると幸い投宿先のホテルが近くにあり、早めにチェックインを済ませ、軽装で城へと向かう。小高い山頂なので徒歩で登るには一苦労である。そのため電停から5分ほどでロープウェイとリフト乗り場があり、好みでどちらでも利用可能だ。春暖の午後、やわらかな光を背に城郭を散策する。姫路城に似た複雑な城郭は美しくも感じられた。天守閣は四方をさえぎるものがなく、城下を観望する。松山にはもうひとつ道後温泉という名湯があるが、温泉の嗜好はないのであたりを散策するにとどめる。ここは夏目漱石の「坊ちゃん」の舞台となった所だ。城、温泉など各所で坊ちゃんとマドンナの衣装をまとったカップルが観光案内や記念写真の撮影に応じてくれる。また、時々、坊ちゃん列車というレトロ風の電車が走り、土産や施設に「坊ちゃん」の名を冠したものが見受けられた。30年も前の学生時代に訪れたとき、松山駅で大阪への行程を尋ねた。いくつかのやり取りのあと「この特急に乗らなんだら行けんぞナ」という駅員さんの言葉が、坊ちゃんの小説に出てくる方言と重なった。今回、居酒屋へも行き、観光地も見た、デパートで土産も買った。しかし、かつて聞いたような方言は聞かれなかった。私の住む佐賀でも、年輩者の方言と若者の方言は異なっている。この地でも同様の事情があることを知る。

 

 【新・四国巡礼】

四国の旅からおよそひと月、なにかやり損ねたような不満が残る。ご存知、四国八十八ケ所巡りはあまりにも有名だ。松山へ出かけたとき、八十八ケ所の寺の2ケ所ほどを目指したが、歩き疲れて途中で断念した。パンフレットの地図を見て、すぐ近くにあると勘違いしたための失敗だ。四国はダメでも九州がある。福岡県篠栗町に新・四国というコンパクト版八十八ケ所があり、通称「篠栗さん巡り」と呼ばれている。ここは、二里四方ほどの自然豊かな山里に八十八の札所が詰まった霊場で、唐から帰国した弘法大師(空海)が修行した地でもある。そして1835年、この地を訪れた尼僧慈忍が八十八ケ所の創設を発願したのが始まりといわれている。若者が毎年、海外旅行を楽しむごとく、年輩の方々は一年を生きる証にと篠栗さんへ巡礼の旅に出る。マイクロバスなど利用すれば、一泊二日で主だった札所を巡ることができる。その一番札所が南蔵院だ。(写真・上)明治時代に入って霊場廃棄命令が下されたとき、地元の人々が存続の陳情や嘆願を30年にわたり続けた結果、高野山・千手谷にあった南蔵院を招致し全ての札所をこの境内に置くことで存続が認められた。

一週間前に開花した桜は花冷えもあって、長くその盛りを留めていた。この日は新緑と花吹雪を満喫する巡礼だった。JR城戸南蔵院前駅で下車、3分も歩るけば参道だ。「南無大師遍照金剛」の文字を背にした白衣の人々や普段着の人、ドライブついでの人が札所へ向かう。ありとあらゆるところが祈りに通じるのだろう、お地蔵様や仏像が並び、トイレの中にまで賽銭籠が設けられている。ここに1円、5円、10円のいわゆる「こま銭」を投げ入れ拝礼する。五寸間隔で置かれたところもあるので、100円を差し出していたら、たちまち破産してしまう。年輩の方が篠栗さん巡りのため1円貯金をする理由がよく解かった。しかし、私は密かな不快感を抱いている。霊場とはいえ、1円玉を無造作に撒いて捨てるような行為。「一円を笑うものは、一円に泣く」神も仏もこれを見咎めないのだろうか?

南蔵院から小さなトンネルを抜け、さらに山手へ移動すると巨大な涅槃像がある。(写真・下)南蔵院はミャンマーやネパールに医薬品、ミルク、文房具などを長年に渡り送り続け、その返礼としてミャンマー仏教会よりお釈迦様と高弟 2人の真骨の贈呈を受けた。その安置所として1995年(平成7年)に涅槃像が建立された。大きさは全長 41m、高さ11m、重さ300トンでブロンズ製としては世界最大である。涅槃像の前の老若男女、この人々は一体なんの集まりかと思っていると、話が始まった。どうやら観光客の多い春休みを利用して地雷撲滅の募金活動を行うようだ。「○○クンと○△サンは下の参道へ、小生と□○クンはここの入り口で、、、」私も早速、協力を致した次第。さすがに「こま銭」をばら撒く勇気はなかった。南蔵院周辺の札所を巡り、次は電車で二駅下る。「打ち納め」と呼ばれる補陀洛寺(ふだらくじ)へ向かって歩いた。一番から終番へ直行し、巡礼を終えようという不届きな魂胆である。売店の人に「お疲れさま」と声をかけられ、面映い結願であった。

 

 【絶滅危惧種】

博多と長崎を結ぶ特急電車「白いかもめ」、生き物ではないが生き物のごとく大切なものだ。以前は旧国鉄時代の車両を真っ赤に塗った「赤いかもめ」が走っていた。2000年春、長崎で日本・オランダ交流400年の記念イベントが開催され、これに合せ新型車両の「白いかもめ」が登場する。私の郷土(佐賀県・鹿島市)は長崎本線の中間に位置し、駅は市の玄関としての役割を果たしている。いま、長崎新幹線の着工が目前となった。着工の条件は沿線すべての自治体の同意を必要とするが、鹿島市と江北町がこれに反対を続けている。鹿島市長は2007年3/1日に開会した定例市議会の施政方針演説で、JR長崎本線を走る特急「白いかもめ」を「絶滅危惧種」に指定することを宣言した。これを鹿島市版・レッドデーターブックに掲載しJR長崎本線存続運動を展開するという。反対の理由は至極常識的なことだ。新幹線のために、現在、りっぱに使命を果たしている長崎本線が経営分離され、第3セクターへ移される。その後の経営状況は国内各地の先例を見るまでもなく厳しく、やがて廃線への運命が待ち受けている。

新幹線が開通すると博多--長崎が20分短縮されるというが、これに3000億円..最終的には5000億円ともいわれる税金を投入するのは無駄である。20分短縮の中味も実は怪しいものだ。鹿島市長の話では、「白いかもめ」をスーパー特急にして停車駅を減らせば10分短縮は充分可能だという。とくに博多-佐賀の短縮効果は数分に過ぎない。この現実を証明するかのようにアンケートでは60%もの県民が必要なしと答えている。当の長崎県民でさえ同様の数字だ。地方紙・佐賀新聞の読者欄でも必要なしの投稿がほとんどを占めている。推進派は遠くに住む佐賀県出身者の談話を紹介し「新幹線があれば帰省に便利」、「地域活性化」、「経済効果」を主張する。国や県の財政は借金にまみれ、破綻してもやるつもりだ。国や県や知事、また一部県内の首長たちは「長崎新幹線活用ネットワーク」を結成し、包囲網を張る。彼らは新幹線の是非を問うどころか、新幹線ありきの話を進めている。鹿島市民の声はもちろん存続を願うものが圧倒的に多い。しかし、一部には国策だから無駄な抵抗はやめて見返りを得たほうが良いという考えもある。めざましいメディアの発達で、私たちは公共事業に群れる政治家、役人、企業の不祥事を見せ付けられた。いまや公共事業の構図は白日のもとに晒されている。利用者である住民の意思を無視する少数の人々は私たちが選んだ人々だ。選ばれたが最後、何をするか分からないことを分からなかった私たちの責任は大きい。

 

【知人たちの仕事場】

2000年が明けてまもなくネットに接続する。1年ほど経った頃、知人の作ったHPに触発され、仕事のHP作りを試みた。「こんなに簡単・ホームページを作ろう」というフリーソフト(FrontPageExpress)の解説書を手本に、約10日で16ページのHPが完成した。この時、ページを埋める苦肉の策として、休日の愉しみというファイルで知人の仕事場を紹介した。これが意外に好評を博し、追加を続けることになる。徐々に膨らみすぎて、入れ替えながら定数を維持していた。以下は、いままで紹介した「知人たちの仕事場」である。

ミヤザキ趣味工房

実を言うとカミさんの伯父で、結婚以来の長いお付き合いになる。本業は窯業機械の設計・製作である。焼物の指南を受け、窯元巡りもご一緒願った。とにかく趣味が広い。なにかを始めるといつの間にか本物に迫る器用さである。陶芸から水墨画、写真、てん刻、詩吟、カラオケ、笛、面、、私が知っているだけでもこれだけある。本業ではないので「趣味工房」としているが、工房は仕事場であったり居間であったり..作品は年に数回、各種展示会で披露される。

門司ヶ関人形工房

粘土で形を作り絵を施していく。焼かれていないので、水に会うと溶ける。「飽きたら土に戻して下さい」との由。戦後、柳瀬氏が作り始め、門司ヶ関人形と呼ばれた。柳瀬氏の死後、一時中断したが、1987年頃から上村誠氏によって復興された。上村氏はデザイナーという本業の傍ら製作に励む。器用さや感性が人形の世界に生き、広がっていく。

山口和宏木工房

木に温かみのある事はよく言われることである。プラスチックの器よりかはガラスや陶器や木が良さそうに思える。汁椀は木製のものを用いるが、木の器は陶磁器ほど一般的ではない。この度、器を分けて頂き使って見た。手触りが柔らかで温かい...ガラスや陶磁器では得られない感触に驚く。呼吸をしているといえば言い過ぎかも知れないが、そんな気がしないでもない。

喜多窯

陶芸家といえば皿・茶碗。唐津焼といえば古唐津に茶道具。そのいずれをも焼かず、オブジェだけを焼き続ける作家である。写真は石を焼いた作品。どんな石でも焼けるわけではなく、風化しやがて土になる石を選び、割り、彫り、削り、窯で焼き上げる。皿・茶碗を焼くにも苦労や創造性は必要だが、産業と芸術の狭間に埋没しルーチン化する。イメージを具現する濱崎節生氏のオブジェや人形には物語があり、物語が生まれる。

 

【城散策(3)・唐津】

名古屋城、松山城の散策を記事にしたが、もちろん佐賀にも城はある。しかし、城の見所とされる天守が残るか復元されたものは、ここ唐津城しかない。唐津焼に興味を持つまでは唐津城と城の眼下に広がる海水浴と虹の松原(防風林として植えられた松林)しか知らなかった。たぶん、唐津焼に興味のない人は、この3ヶ所で唐津観光を終えるだろう。唐津城は海辺に近接する小高い丘にあり、別名:舞鶴城と呼ばれる。これは本丸を鶴の頭、左右に広がる松原を羽に見立てて名づけられた。築城は江戸時代初期の慶長7年(1602)で、豊臣秀吉が築いた後、廃城となっていた名護屋城の遺材が使用された。車で北へ30分ほど走ると名護屋城がある。ここは城跡だけが残り、古を偲ぶしかないが、復元された城よりか心象に沁みるものがある。名護屋城は400年程前、豊臣秀吉が朝鮮半島、明(中国)へ向けて出兵(文禄、慶長の役)するための根拠地として築かせた城で、晴れた日には朝鮮半島が肉眼で確認できる。また、1985年公開された黒沢明監督の「乱」のロケが行われたことで知られている。唐津城は明治4年(1871)廃藩置県により廃城となり解体され舞鶴公園となった。そして、昭和41年(1966)に観光施設として5層5階の模擬天守が築かれ、門・櫓も同時に再建された。

城の近くには舞鶴橋があり、橋から城を望む景色が最も美しいとされる。松浦川の河口にあるため、ライトアップされると城は海と川面に映え、写真スポットを演出する。この日は、連休最終日で天気は曇り、20年ぶりの見物であった。ここの藤棚は有名でしばしばテレビや雑誌で紹介される。花は満開を過ぎていたが香りはまだ衰えてはいなかった。連休というのに人影は少なく、田舎の観光地の限界を感じさせるが、私には好都合だ。城の内部は資料館で、天守最上階からの眺望は格別である。城郭を散策し石垣と海を撮る。(写真・下)海に浮かぶ島は高島といい、ここの宝当神社はツアーが組まれるほど関係諸氏には知られている。他でもない、名のとうり宝が当る神社だ。宝くじを購入した折には、くじを抱えてここへ参拝すると当るかも知れない。賽銭もお忘れなく..

 

【新・収集品(1)】

「ぐいのみ紀行」のサイトはプロバイダーのHPサービスを利用するという目的で製作したものだ。何をテーマにすべきか迷った末、過去の趣味から焼物を選んだ。想い出を語るようなもので、現在の心境は醒々としている。しかし、所用やドライブの途中、窯元の看板を見かけたり、焼物の店があると足を止める。趣味は静かに密かに糊口を凌ぎ続けている。「ぐいのみ紀行」を開設して間もなく2年、この間、同好の趣味の方々から感想や問い合わせのメールをいただき、ときには焼物談義に華が咲いた。置く場所もない、いままで集めた焼物で充分だろう、という声がどこからともなく聞こえてはくるが、煙草も吸わない、パチンコもゴルフもやらない、グルメでもなし、旅行もしない、昼は一杯のかけうどんで良し..と自分を納得させ、昼飯程度の小遣いをつぎ込む。

【焼締湯呑み/¥3000】

土のザラザラと灰を被りツルツルとしたコントラストが景色となり、高台の彫りが独特である。湯呑みとして並べられていたが、焼酎ロック用ぐい呑みとして購入。見込みが口よりやや広いため香りが留まるような気がする。焼締の器は氷の触れる音が軽やかで心地よい。

【絵唐津ぐい呑み/¥2000】

砂交じりの粗土は成形が難しいだけに完成したときの味わいも深い。絵があるのが勿体ない。砂粒の間を釉薬が流れ、使い続けると地割れしたような貫入が走る。これで清酒を2〜3杯、その後、焼締ぐい呑みで芋焼酎を1杯..飲酒のペースは速く、ほぼ30分で終了。空腹時、早く飲めば飲むほど早く酔い、酒が少なくて済む。延々と1時間も2時間も続く宴会はお断りしたい。

【絵唐津ぐい呑み/¥700】

焼物の値段を見ていると、半値が妥当なところ、と思うものが多い。稀ではあるが1/10でも高いと感じるものもある。稀なるものは何を隠そう人間国宝の作品だ。しかし、写真のぐい呑みは2倍、3倍、4倍払っても欲しいと思った。このようなぐい呑みが見つかると、しばらくは大変得をした気分になり酒量も増えてくる。形は浅くなく深すぎず酒を注いでもこぼれず硬くて重い。赤味がかった高台は古窯跡の牛石の土を使っているとの事。この土は貴重なものらしい。

【焼締ぐい呑み/¥1000】

灰を被り融け出しそれが釉薬になる、窯変の妙だ。ざらざらした焼締めは手入れが面倒で、異臭を放ったりカビが発生したりする。その点、これは安心だ。高台まで自然釉に覆われているのは、おそらく斜めに置いて焼き上げたからであろう。

【焼締馬上杯/¥2000】

高台が歪に欠け、失敗したような景色を買う。手酌派としては馬上杯に特別の愛着がある。高い位置で注げるので片手で間にあうのだ。また造形はワイングラスにも似ているため、ワイン、ビール、ブランデー..何でも受け入れる万能選手である。

【焼締馬上杯/¥750】

好みの形のぐい呑みに柄がついた馬上杯、花で言えば睡蓮か木蓮かチューリップのごとく底が深い。氷の収まりもよく容積も大きい。¥1000以下の焼締め馬上杯を見たことがなかったので大感激。○○先生・陶芸展では軽く10倍の値がつくものだ。

【皮鯨ぐい呑み/¥1000】

城散策(3)・唐津の後、連休に合わせて開催された唐津焼展へと移動する。10軒ほどの窯元が新作を展示するものだ。ここも閑散として焼物が売れているような気配はない。唐津周辺だけでも50軒はあろうかと思われる窯元が、これで生活できるのだろうか?と余計な心配が芽生えてくる。ところが佐賀を一歩出ると唐津焼は入手し難く高価であることを知る。ネットで調べてみると同じようなものが、私の購入価格より数倍、ときには一桁も違う。「同じようなものではない(`^´)/☆(-.-)」と怒られそうだが、貧乏人は感性まで便利にできているのだ。唐津焼はいつの間にか美術工芸品の域にまで高まっている。窯元先生の生活の心配までして損をした。写真のぐい呑みは持った感じが重厚で手への収まりが良い。高台の釉薬の調子が景色となっている。この日購入したのは最も安かった是一点のみ。

【白磁ぐい呑み/¥550】

陶器と白磁は対極を為すものだ。磁器のシンプルさ、使いやすさは認めざるを得ない。清潔で端正で機能的、窯変などとは言わせない。磁器についても絵のないものを好む。絵は絵描きに負かせ、陶芸家は土の景色を引き出せば良い。中央のラインは6:4の湯割り、水割り、はたまた手が滑らぬ工夫か?底の3つ足はコースターが着いたり、テーブルが濡れないための配慮だという。

 

【くすり博物館】

中富記念 くすり博物館パンフレットより(写真・下)

1971年、製薬会社のエーザイが日本初の「クスリ博物館」を開設した。いつかは見物に行きたいと思いながら時は過ぎ去っていった。クスリ博物館など忘れていた1995年、佐賀に日本で2番目となるクスリ博物館が開設された。かつて佐賀の基幹産業が農業であったころ、陶磁器、医薬品も製造業として上位に名を連ねた。陶磁器は有田焼、そして医薬品は配置販売【注】の製薬会社であり、鳥栖・基山地区には何軒もの製薬会社がひしめいていた。富山の「置き薬」は知られているが、同じく佐賀、滋賀、奈良などが生産県であった。現在は数えるほどに減ったものの、配置薬の製薬会社を前身とする久光製薬は外用薬の成功により大企業へと発展を遂げた。この久光製薬の肝いりで開設されたのが中富記念・クスリ博物館で、古くからの製薬の地での意義深い事業となった。建物(写真・上)はイタリアの彫刻家チェッコ・ボナノッテ氏が設計し、石とガラスを素材としたシンプルな造りである。整備された庭園には所々に薬草が植えられ、館内は製薬の歴史や技術に関する展示がされている。珍しい生薬や古い製薬の道具や昔のクスリ屋も復元されている。入館料・大人¥300/クスリに興味のないかたでも一度はお世話になるもの、見聞を深めるのも悪くはない。

【注】配置販売業:販売員が消費者の家庭や企業を訪問し、医薬品の入った箱(配置箱)を配置し、次回の訪問時に使用した分の代金を清算し、集金する仕組み(「先用後利(せんようこうり)」という。)の医薬品販売業の業態である。薬事法第25条に規定された医薬品販売業の業態のひとつで、日本独自の医薬品販売の形態である。一般に「置き薬」(おきぐすり)と呼ばれる。(Wikipediaより)

 

【オランダへの旅】

車で1時間ほどの隣県、長崎県佐世保市にはオランダの旅を疑似体験できる施設がある。その名はハウステンボス。この前身は1983年、10kmほど離れた対岸に開園した長崎オランダ村である。創始者は町役場の職員だったが、「オランダとゆかりの深い長崎にオランダの町並みを再現しよう」という発想で始められた。オランダ村の開園直後に出かけたときは規模も小さく、風車とオランダ船、土産物売り場、食堂くらいで、その割りに駐車場は広く確保され、狭い施設に観光客が続々の状態であった。少し離れたところにバイオパークという広い動植物園があり、こことセットで見物ができた。東京ディズニーランドもこの年にオープンしている。この頃からバブル景気も手伝い各地でテーマパークの開設が続いていった。しかし、何事も希望のまま際限なく延びていくものではない。バブル景気も終局を迎えつつある1992年、佐世保市にオランダ村とコンセプトを同じくし、さらに大規模なハウステンボスがオープンした。面積は152万ha(461000坪)で東京ディズニーリゾートとほぼ同規模になる。この施設は長崎県が工業団地として造成し誘致に失敗した土地が使われた。土地代にも勝る費用を投入し土壌改良が行われ、約40万本の樹木と30万本の花が植えられた。全長6kmの運河は水辺の動植物の生態系を守るため、コンクリートを使わず石や土、木などが利用され、運河の水はポンプで循環させ施設内の排水も高度処理し自然に戻すという方法がとられている。この建設などにかかった費用は総額2千数百億円といわれる。伝説のような話であるが、積み上げた建物のレンガがわずか数mm、ズレただけで最初から作り直すという拘りようだった。JRハウステンボス駅まで特急・ハウステンボス号が走り、開業当初は話題にもなったが、1996年入場者425万人を記録したあと年々減少し2001年には355万人まで落ち込んだ。そして、ついに2003年2月会社更生法の適用を申請した。その後、更生計画案が練られ、2004年4月リニューアルオープンの運びになり、翌年、2005年の入場者数は195万人となった。

入場者の激減と同じ頃、起こったことは大規模小売店舗立地法の制定である。2000年を機に大型ショッピングセンターの出店が盛んになり、あたかもテーマパークのごとく各地に乱立が始まった。これは、「テーマパークのごとく」ではなく、テーマパーク以上の役割を果たすものとなり、車社会の成熟と相まって巨大な集客を可能ならしめた。ハウステンボスへ行くとまず駐車料金の¥800が徴収され、次に施設への入場料として大人¥3200を払う、さらに施設内の展示や乗り物の利用毎に料金が要る。さて、昼になった、どこかで食事でも..と考える。施設内にはたくさんのレストラン、お土産物売り場が配置されているが、一番安いカレーライスが¥1000、、、弁当持込が許されないので否が応でも利用せざるを得ない。オランダへ行くよりかは安くつくだろうが、一般の食堂、レストランより相当割高である。「ならば、入場料を安くしろ」と言いたくなる。この不満や不便を見事解決したのが大型ショッピングセンターである。駐車料金、入場料が終日無料、子供の遊び場もあり、お父さんのための書店も、お母さんのための衣料品店もある。昼はワンコイン程度で食事も提供され、夕食や弁当の材料も揃い、すべての案件がここ一ヶ所で賄える。つくづく「世の中変わった」と思う。一回くらい、テーマパークへ行くのもよいが週末毎に利用できるところではなく、この宿命が入場者減に反映する。「一度行けば十分..」という声はしばしば聞かれることだ。広い施設であるのは確かだが散策なら食事時間も入れて2〜3時間、展示施設や遊具を利用し尽しても1日あれば十分だ。お土産に写真を一枚。(写真・下)通りがかりのブティックでオランダ旅行中のマリリン・モンローを見かける。周囲を一瞥、人の居ないことを確認後...腰を下ろしてカメラを構えた。

 

 

    

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